「合理的配慮」のその先へ。誰もが配慮し、配慮される職場を作るには

障害者雇用の話になると、語られるのはいつも「障害のある人に、どう配慮するか」という視点ですが、障害のある人と一緒に働く現場には、もう一つの現実があります。それは、配慮する側の戸惑いや負担、そして疲弊です。わたしは障害者であると同時に、障害のある同僚と一緒に働く立場でもありました。

 

自分が限界でも、配慮は求められる

 

業務が立て込み、超過勤務になるほど忙しい日々の中でも、私は「配慮する側」でいることを求められました。障害者雇用の現場では、合理的配慮は当然のものとして存在します。作業の順序を細かく説明する。報連相のタイミングを何度も伝える。混乱しないよう、先回りしてフォローする。それが必要だということは理解しています。けれど、自分自身も障害者で、余裕がない状態のとき、その配慮は確実に心を削っていきました。

 

「義務としての配慮」が感情をすり減らす

 

配慮を「義務だから」「ルールだから」という理由だけで続けていると、少しずつ歪みが生まれます。最初は「支えたい」という気持ちだったはずなのに、いつの間にか「なぜ私ばかりが」「これは誰のためなんだろう」という思いに変わっていきます。やがて、これは評価につながるのか、感謝されるのか、といった考えが頭をよぎり、相手の良いところよりも「できないこと」、「遅さ」、「配慮が必要な部分」ばかりが目につくようになります。正直に言えば、差別的だと自分でも思う感情が心に広がっていくのを止められませんでしたし、介護疲れにも似た「配慮疲れ」を強く感じました。

 

現場で実際に起きていたこと

 

挨拶も苦手で、作業も遅い同僚がいました。彼が入職してから、遅れた分の作業を私が引き取ることが増え、超過勤務は一気に増えました。36協定の制限がある中で、結果的にサービス残業になることもありました。それでも、「ありがとう」という言葉はありませんでした。また、別の同僚は指示がなければ動けない人でした。チームでメールでホウレンソウをしていても一切確認せず、何度伝えても改善されません。上司から言われて初めて見るようになりましたが、それまでにチームの同僚がカバーした負担への謝罪はありませんでした。

 

誰が我慢する役割なのか

 

障害者への配慮は必要です。しかし、その配慮を引き受け続ける人の負担は、ほとんど語られません。一緒に働く同僚にも、戸惑いがあり、不満があり、限界があります。それを「理解が足りない」「冷たい」と切り捨ててしまっていいのでしょうか。

 

本当に必要だと思う視点

 

必要なのは、義務としての配慮でもルールとしての合理的配慮でも「いい人」であろうとする優しさでもありません。「わたしとあなたが、どうすれば一緒に壊れずに働けるか」という視点だと、わたし私は思います。誰か一人が我慢し続ける環境は、長く続きません。障害がある人も、ない人も、誰もが「配慮する側」にも「配慮される側」にもなりうる存在です。自分が気持ちよく配慮を受けるために、周囲に配慮する。相手に配慮を求めるなら、相手が疲弊しない形を一緒に考える。そんな関係性があってもいいはずです。

 

問いを、置き去りにしないために

 

「障害者雇用」「障害者活躍」という言葉の主語は、障害のある人だけではありません。そこにいる全員が、どうすれば無理なく働き続けられるか。誰かが静かに壊れていく職場で、本当の「活躍」は成り立つのでしょうか。障害者雇用とは、誰のためのものですか。その職場で、今いちばん我慢しているのは誰ですか。

それでもわたしは、この問いを置き去りにしない職場が増えることを、信じたいと思っています。